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キリスト教教育CHRISTIAN EDUCATION

EDUCATION礼拝と聖書の学びを通して、
神をおそれ人を大切にする
心を育てる

教育目標の第一に「礼拝と聖書の学びを通して、神をおそれ人を大切にする心を育てる」と謳い、
「毎日の礼拝」および「週1時間の聖書の授業」の二つを土台としたキリスト教教育を行っています。

毎日の礼拝

礼拝では、私たち一人ひとりが神に愛されているかけがえのない存在であること、それゆえ自分と隣人とを本当に大切にしなければならないことを感謝をもって学んでいきます。

週1時間の聖書の授業

「道徳」の振替科目である聖書の授業では、神以外のものは何ものもおそれない、真に科学的に物事を探求する精神を養います。このことは、すべての教科学習の基礎となっています。

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MESSAGE宗教主任からのメッセージ

青山学院の教育はキリスト教信仰にもとづく教育をめざし、
神の前に真実に生き真理を謙虚に追求し愛と奉仕の精神を
もってすべての人と社会とに対する責任を進んで

果たす人間の形成を目的とする。

中学生。それは他者との違いが気になり始める世代です。横にいた同級生が一歩も二歩も自分の先を行き自分だけが取り残されると感じる生徒が多くいます。異性を意識し、人よりも目立ちたいと思い始める生徒も多くいます。学業、部活、交友関係などあらゆる面で他者との比較をし始める世代でもあります。互いに切磋琢磨し合って個を磨くことは人間の成長にとって不可欠な要素です。しかしながら、他者と比較する為だけに個を磨くのなら、誰もが自己中心的になり他者に対する労りや思いやりの心を向けられなくなるでしょう。一つのことに熱中し易い中学生という多感な世代はそうなりがちな危険を孕んでいると思います。

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一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、
一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶ

青山学院中等部では必ず毎日、礼拝を守ります。多感な時期を生きる生徒達にとって日々の礼拝は、神の前では誰もが同じ人間であり、一歩も二歩も先を越されていると思っていた隣人が実は欠点を持つ一人の人間に過ぎないことに気づかされる場となり得ることでしょう。聖書の神は人間の命を死で終わらせません。そのことを示す為に神はその独り子であるイエスを死からよみがえらせました。その神の前では、生きている間にどれだけの結果を残せたかが問われるのではありません。むしろ誰もが避けられない死から永遠の命に至らせるために、神はその人に命を与えているのであり、そのかけがえのない命を隣人のために用いることが私たちに求められています。そうであるならば人と比較して上か下かではなく、神から自分に与えられた道を自分らしく努力するよう促されていくことでしょう。神は分け隔てなく全ての生徒をその道へと招いています。その招きから、一人の生徒も欠けてはなりません。もし傷つき倒れている隣人がいたら誰かが手を差し伸べ、誰もが参加できるように助け合うことを神は生徒にも、教師にも求めています。「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶ」(Ⅰコリント12:26)ことができることを、神は礼拝において生徒にも、教師にも気づかせようとしています。

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良心、隣人愛を育む為に個を伸ばすことが求められている

礼拝を軸とするキリスト教教育は、個の為に個を伸ばすこととは相容れないし、公の為の個を伸ばすことでもありません。神から一人ひとりに与えられている良心、隣人愛を育む為に個を伸ばすことが求められていると言えるでしょう。育まれるのは神ご自身に他なりませんが、中等部における礼拝も聖書の授業もその神の働きかけに生徒一人ひとりを気づかせるべく、尽きることのない努力を傾けたいと願っています。