教育/キリスト教教育
宗教主任から
青山学院の教育は
キリスト教信仰にもとづく教育をめざし、
神の前に真実に生き
真理を謙虚に追求し
愛と奉仕の精神をもって
すべての人と社会とに対する責任を
進んで果たす人間の形成を目的とする。
聖書科課外授業で聖ヨハネ・ホスピスを訪問した有志メンバー
毎日の礼拝、週に1度の聖書の授業、教会暦に従ってもたれる特別礼拝や校内外での奉仕活動などは、この教育方針 ―理念― に基づいて行われています。
現代人は、数多くの課題に直面しています。
教育においては、教育の場の荒廃や理念の喪失などがあげられるかもしれません。
人があまりにも近視眼的になり、社会が実用・実務的なものを重用し過ぎる傾向にあることが、理念の喪失の原因かもしれません。
「すぐに役に立つ知識や技術はすぐに時代遅れになる危険をはらんでいる。 逆にすぐに役に立たない知識が長持ちすることがしばしばある。」という指摘を新聞で目にしたことがあります。
現代の学校、特に大学に対する警鐘として真摯に耳を傾けなければならない言葉ではないでしょうか。
聖書に「幻なき民は滅ぶ」とあります。“King James’Version”(欽定訳聖書)の“Where there is no vision, the people perish”(幻のないところでは、民は滅ぶ)が出典だということです。
この「幻」は、シャーマン(シャマン)の憑依や脱魂とは明らかに違います。
神の意思を告知する方法で、旧新約聖書とも、この語を「見る」という動詞と関係づけており、覚醒した意識のまま、ある事象を目にし、言葉を聞く経験を意味します。
端的に言えば、「言葉を見る」(エレミヤ23:18;アモス1:1)ということです。
「神の言葉を聞かない民は滅びる」と訳せるかもしれません。
口語訳聖書では「預言がなければ民はわがままにふるまう」、新共同訳聖書では「幻がなければ民は堕落する」と訳されています。
とても興味深い翻訳だと思います。
これを「理念なき共同体は滅ぶ」と言い換えるならば、それは学校にも及ぶものではないでしょうか。
人は物ではありませんから、機械の部品のように取り換えたり、鋳型にはめるとすぐにでき上がるというわけにはいきません。
変わることのない聖書の言葉を土台とした方針・理念に包まれて、じっくりと時間をかけてしか形成され得ないのだと思います。
さらに知るべきは、人間の形成が神の業であり、人の業ではないということです。
使徒パウロは言いました。
「わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。」(Ⅰコリント3:6)。
人はじっくりと時間をかけて、はじめて、あるべき自分になる。
だからといって、「今、ここで」を無視するわけにはゆきません。
多くの生徒が宗教の授業に無関心になるとするならば、それは授業が自分たちの日常とほとんど無関係で、「今、ここで」現実に直面している問題に答えてくれないと感じているからではないでしょうか。
オランダ人のカトリック司祭ヘンリ・ナウエン(1932~1996)は、この点について示唆に富んだ言葉を残しています。
「すでに決まりとなっている理念を押しつけるよりも、学生(生徒)が愛し、与え、創造する人間としての潜在能力を発揮して、恐れることなく探求する勇気をもてると自覚する場の提供のほうが重要だと思われる。
自分の人生経験に触れ、内心にある解放と新しい生き方を切望する思いに耳を傾けるときに、はじめてイエスはただ語られただけではなく、わたしたち一人ひとりのきわめて個人的な要求を満たすために手を差し伸べられたのだと認められる。
福音(聖書)は記憶にとめる価値がある理念だけを語っているのではない。
それは一人ひとりの個人にとっての人間の条件に応えるメッセージだ。」(括弧内は私訳)
イエスは、わたしたちの日常に深く関わろうとしておられます。
このお方を知るための礼拝や聖書の授業は、とても大切な時間です。
2008年10月、聖書科の課外授業として、有志の3年生18人と一緒に聖ヨハネ・ホスピスを訪問し、セミナーを受講しました。
3年生は1学期に、聖書科のテーマ学習の中で、「死生観」や「脳死・臓器移植と聖書」などを学びます。
少しだけ現場を知っていることもあり、ホスピスという現場で働く人たちの声を生徒たちにも聞いて欲しいという願いが、かねてからわたしの中にありました。
しかし、「現場に行くのはどうだろう。
中学生には、はや過ぎるのだろうか」という懸念もありました。
連絡をしてみると、「受講対象者は、高校生以上」ということでした。
「やっぱり、無理か」と思っていると、「スタッフと話してみます」という声が受話器の向こう側から聞こえてきました。
その言葉に期待しながら、返事を待つことにしました。
数日後、ファクスで回答がありました。
引き受けてくださるというものでした。
早速、お礼の電話をしますと、何度か電話をしたが、連絡が取れないのでファクスで送信した。
でも、直接、お話をしたかったということでした。
「(生命の問題は)大切なことですから、お引き受けすることにしました。中学生に分かるようにお話をします」と言ってくださいました。
当日、生徒と引率の教師22人で、雨の中、小金井市にある聖ヨハネ・ホスピスへと向かいました。
電車の中で、生徒たちと雑談をしながら、「何かの役に立ってほしい。今でなくても、いつか」と念じていました。
最初にDVDで施設と入居者の方々について伺いました。
その入居者の中には、すでに天に召された方もおられました。
そして、ドクター・看護師・シスターの方々に、それぞれの立場から、お話をしていただきました。
最後にわたしたちの質問に丁寧に答えてくださり、予定していた1時間半を30分ほどオーバーしてセミナーを終えました。
翌日からの1週間、聖書の授業の中で、参加した生徒たちに感想を交えて報告をしてもらいました。
予め頼んでいたわけではなく、授業の始めに「これから、ホスピス訪問に参加した人に報告をお願いします」と言って、わたしが今回の訪問について話をしている数分の間に自分の報告をまとめてもらう、というちょっと乱暴とも言える仕方でした。
にもかかわらず、A~F組の各クラスから2~3人ずつ参加していた生徒たちが、皆、それぞれ感じたままを報告してくれました。
身近な人が、そのホスピスで亡くなった。
数日前に祖母がガンであることを知らされ、どうしてよいか分からずにいた自分に励ましや相応しいアドバイスを与えてくれた。
聖書の言葉が、真実だと思った。
嬉しくなりました。
発表する生徒たち一人ひとりの手を取って、抱きしめる思いでわたしはそこにいました。
「君たち、普段は何も感じていないような顔をしているくせに、ちゃんと生きてるね。
ちゃんと感じてるな。
考えてるな。わたしが話すよりも、君たちの話のほうがずっといい。もっと話してくれ」と言いたい気持ちでした。
「今、ここで」分かること、実感すること、役に立つこともある。だから、聞いて欲しい、感じて欲しい、考えて欲しい。しかし、イエスが「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」(ヨハネ13:7)とペトロにおっしゃったように、この方が「わたし」個人と深く関わりのあるお方と感じられるのは「今、ここで」ではなく、「後で」なのかもしれません。
それは、数年、あるいは数十年先のことかもしれません。
それでいいのではないでしょうか。
人は、じっくりと時間をかけないと形成されないのですから。
宗教主任 西田恵一郎





